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「東武館」

水戸市北見町2-26 電話029-221-4729 地図


「東武館」立ち読み沿革史

剣道はいままでに、大きな試練に2度会いました。
ひとつは江戸幕末期から明治初期にかけて、ひとつは太平洋戦争後、昭和20年から28年にかけてであります。

水戸藩は改革派(天狗党)と諸生派の抗争で、幕末から明治初期にかけて凄惨な抗争をし、有為な人材が多く失われました。東武館創設者小澤寅吉宅も(母屋は元禄時代に建てられたもので平成15年まで現存した)、武田耕雲斎の孫、武田金次郎一派の天狗党残党に襲われ、母屋の梁や柱に刀傷を残しました。

水戸藩矢倉奉行、弘道館剣術方教授小澤寅吉政方が、水戸藩家老小山小四郎屋敷跡に「東武館」を創設したのは、明治7年1月1日でありました。当時、武芸は明治政府の廃刀令とも相まって、衰退の一途を辿っていましたが、寅吉はあえて「文武不岐」「学業一致」の水戸学の精神に基づいた、少年剣道の礎を気築きました。門下には後の武道専門学校教授になった内藤高治(甥の名横綱常陸山谷衛門は高治のみちびきにより相撲界に入った)をはじめ、多くの人材を輩出し、剣道会の指導的役割を果たしました。
寅吉は県会議員としても明治以後の、職を失った水戸藩士のために資材を投げ打ち奔走しました。

その後東武館は小澤一郎、二郎に受け継がれました。
一郎は剣道を中学校の正課にするため、長野の柴田克己と共に文部大臣にたびたび働きかけ、明治44年正課採用が認められました。また一郎は剣道のみでなく、市会議員として水運、灌漑事業など、地域社会に大いに貢献しました。一郎亡き後、道場養子であった三代館長小澤豊吉(東武館を去った後、東京大学、大蔵省剣道師範)にその精神は受け継がれ、4代館長小澤武にバトンタッチされました。

2度目の試練は、太平洋戦争後、敗戦した日本は連合軍に無条件降伏し、昭和20年より28年までGHQの極東委員会で剣道廃止を指摘され、国技とも言える剣道が名目上禁止されました。

しかし、戦地から復員した剣道家たちは、現存する小澤家の籾蔵で声をひそめて稽古し、剣道復活に夢を託しました。小澤武は戦後の剣道を再興すべく、多くの剣道愛好家とともに東奔西走し、昭和28年晴れて剣道は日の目を見ることができました。

武は当時の常陽銀行頭取亀山甚氏の後援を受け、いち早く東武館を再建し、全国に先駆け少年剣道に力を注ぎました。俳壇の重鎮、高野素十は「冬木伐って水戸東武館興る」という句碑(現存)を館内にのこしました。昭和30年「第1回東日本剣道大会」を東武館主催でたちあげ、昭和35年「第1回全国選抜少年剣道錬成大会」を開催するに至りました。この大会は「水戸大会」として、全国剣道少年の憧れの大会として現在まで続いており、平成16年3月には、北海道から沖縄までの394チームが参加し東武館創設130年を冠して第45回の大会が盛会裏に幕を閉じました。

四代館長小澤武は戦後の少年剣道の隆盛を、身をもって支えてきました。その影響力は門下生のみならず、県内外に大きな功績を残しています。

現在七代館長小澤智をはじめ指導陣一丸となって少年たちの健全育成に一端を担っております。
お通りがかりの節には、お気軽に少年たちの稽古を見てくださればうれしいかぎりです。

(財)東武館 広報 「東武館」立ち読み沿革史


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